小江戸川越七福神の大黒天が祀られている、川越大師喜多院の成り立ちは、奈良時代に遡ると言われています。

喜多院は、徳川家康、家光にも所縁があります。右の写真は慈恵堂。

左の写真は多宝塔です。

境内には、高林謙三の石碑(左の写真)もあります。右の写真は石碑の周りに植えられている茶樹。
高林謙三は川越藩主の侍医を勤めた後、狭山茶の産地である川越で、明治期に製茶機械を発明したパイオニアです。

喜多院から約100m東にある喜多院斎霊殿(左の写真)に、高林謙三の墓所があります。右の写真は墓所と書かれている石碑。

左の写真が本物の墓所。入り口に看板(右の写真)が立てられています。

喜多院、斎霊殿から約300m南には、天台宗の開祖、最澄の弟子、円仁が建立した中院(左の写真)があります。

中院は、作家、島崎藤村の石碑があり、不染と刻まれています(右の写真)。藤村の妻、加藤静子は川越出身で、藤村も度々川越を訪れていました。義母であり茶の先生でもある加藤みきとは親しく、義母に贈呈した茶室と義母の墓所があることでも有名です。

円仁が京から持ち帰った茶の実を植えたことが始まり、とされる河越茶(狭山茶)。様々な説がありますが、狭山茶発祥の地の石碑(左の写真)も建っています。
茶と仏教のつながりを改めて認識した、川越の旅でした。
東武東上線、霞ヶ関駅北口から徒歩15分の距離に、国指定河越館跡史跡公園と資料館(上戸小学校)があります。

河越館とは、平安末期から南北朝時代に武蔵国で実権を持っていた武士、河越氏の館です。「河越茶 鈴木園」の記事にも書きましたが、河越重頼の娘、郷御前が、源義経の正室になっています。

河越館跡史跡公園を囲むフェンスの内側に、茶の木が植えられていました。右の写真の公園の右側の建物は、資料館のある上戸小学校です。

公園内には、当時の様子を示す案内板が設置されています。右の写真は、館の周囲を囲んでいた堀の跡です。幅4m、深さ2m、南北75m、東西100mの四角形に伸びています。

上は塚状遺構。霊廟あるいは納骨堂だったようです。盛り土の上に石を敷き、周囲は溝でした。

井戸跡。敷地内にあった井戸で、囲いが復元されています。

平一揆で敗戦し河越氏が滅んだ後、戦国時代に山内上杉氏が陣営を構えた堀跡です。

他にも発掘調査看板などが設けられています。

公園に隣接する川越市立上戸小学校。現役の小学校の1室が資料館になっています。

史跡から発掘された中国製の天目茶碗(左の写真)と天目茶碗のかけら(右の写真)。

茶臼(左の写真)と茶壺(右の写真)。

茶入れ(左の写真)や瓦室風炉(右の写真)も展示されていました。
入間川が近くに流れている史跡公園周辺は、当時茶畑があり、抹茶(河越茶)を作っていたようです。河越は京都栂尾に次ぐ茶の産地でした。出土した品から、河越氏が茶を好み、喫茶文化を広めていた可能性を物語っています。
埼玉県の川越は戦国時代まで河越と言われており、江戸時代から川越になりました。その言われは、川を越えた場所にあるから、土地が肥えているから、など諸説あるようです。狭山茶の茶処、川越市上戸にある河越茶の鈴木園を視察させて頂きました。

100mほど離れた所に、源義経の正室、郷御前の実家、河越家の館跡があります。館の大手門だった可能性が高い、鈴木園の土地。立派な長屋門のお屋敷です。

明治時代からの茶畑と明治20年に作られた長屋門は、2009年に彩の国景観賞を受賞しています。右は長屋門の部屋の入り口。

かつては門番が居住していた長屋門の部屋。今はアンティークの農耕器具が保管されています。右は茶摘み用の籠。

左は振るい。真ん中は箕。右は茶臼。
明治の頃は米、養蚕、お茶を生業にしていましたが、昭和初期からはお茶専門になったそうです。

左は部屋の入り口にある水車。右は屋根にある明治期の小谷田の瓦です。

お屋敷の周囲にあるヤブキタの茶畑(左の写真)。左奥に茶工場が見えます。中に入らせて頂くと、敷地内の木を切り出して作った、時代を感じる屋根が目に飛び込んできました。曲がっている木材は松だそうです。

左は生葉コンテナ。真ん中はコンテナ側の床。床下には生葉を保管するスペースがあります。右は火入れ機。

茶箱が積まれている茶工場。現在は一番茶のみ製造しています。

茶畑には、京都栂尾から来た在来種の茶樹もありました。

鈴木家16代目、茶農家は3代目だそうですが、河越茶(抹茶)を作っていた中世は、鈴木園の周辺に茶畑があったそうです。
令和となった今も尚、中世と明治の世を身近に感じる鈴木園でした。
※台風19号の被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。