鎖国をしていた江戸時代、ロシアや西洋文化に触れた大黒屋光太夫を後世に伝えるべく、2005年に開館した大黒屋光太夫記念館。光太夫の故郷、鈴鹿市にあります。

記念館の前に立つ光太夫の像。

記念館全景(左)と館内入口にある光太夫漂流順路図(右)。展示されている北槎聞略附図などから、光太夫が紅茶を飲んでいたことがわかります。

記念館そばの若松公民館に建立された、3代目開国曙光の石碑。徳川家達公爵の文字と新村出文学博士の文章が刻まれています。

昭和9年の室戸台風で壊れた初代開国曙光の碑は、上の部分だけ、記念館前に遺されています。

記念館の向い、鈴鹿市立若松小学校校庭に設けられた、光太夫坐像。学者達の前でロシア語を書いている光太夫の姿です。

伊勢若松駅前の光太夫の像。

没後約200年経った今も、ふるさとの若松を見守っています。
千代崎駅から徒歩5分、千代崎海水浴場そばに、千代崎開国曙光碑があります。この碑は2代目で、上部に記された「開国曙光」の文字は、貴族院議員徳川家達公爵が綴り、開国に向けて差し込んだ明け方の光の意味だそうです。昭和34年の伊勢湾台風の影響で、上が欠けています。

また、同じく千代崎駅から徒歩10分の墓地に、大黒屋光太夫ら17人の供養碑があります。1782年に白子を出帆し、消息不明となった神昌丸。遭難して3年後、船の荷主の木綿問屋により建てられました。

供養碑のそばの若松緑地には、壁面に光太夫漂流記が10枚に分けて描かれています。

①大黒屋光太夫漂流記 〜 天明二年(1782)十二月九日船頭大黒屋光太夫以下17人が乗り込んだ神昌丸が江戸をめざして白子を出帆しました。②遠州灘で強風にあい、船は難破して北へ北へ流されました。③漂流すること八ヶ月、船は翌年七月、アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。

④孤島に漂着してから飢えと寒さの過酷な日々が続きました。⑤この島で三年目の頃、自分達で船を造りカムチャッカに渡ろうという事になり成功しました。⑥カムチャッカ滞在一年半の後、光太夫以下の生き残り六人は、海を渡ってオホーツクに上陸、はじめて東から西へとシベリアの旅路にのぼりました。⑦(シベリア横断)ヤクーツクに着きました。ここは地球上で最も寒い地域で真冬にはマイナス六十度〜七十度にもなりました。

⑧それから一ヶ月後、光太夫は首都ペテルブルグにて女帝エカテリナ二世に会い帰国を許されることになりました。⑨送還船は、二本マストの木製帆船でエカテリナ二世号と命名され、九月二十五日オホーツクを出港し根室に着岸しました。白子浦出帆以来十年の月日が流れました。⑩光太夫漂流順路図

未曾有の回顧録を閲覧できます。
日本人として初めてミルクティーを飲んだとされる大黒屋光太夫。その軌跡を辿る旅に出ました。白子駅から徒歩15分ほどの場所にある白子港緑地。

光太夫が、1782年に出帆した地です。

今は新港となり公園が隣接され、モニュメントが建っています。

彫刻家三村力氏作「刻の奇跡」。

おろしや国酔夢譚の作家、井上靖氏の詩碑「大黒屋光太夫・讃」。

詩碑の裏には、井上靖氏の略歴(左)。そばに設けられた石碑「大黒屋光太夫船出の地を記念して」(右)。

緑地から海へと伸びる道を境に広がる、皷ケ浦海水浴場(左)。海から見た白子港緑地(真ん中)。海水浴場の反対側、緑地の先にある白子新港(右)。



ここから、光太夫の壮大なドラマがスタートしました。